ミッドサマー考察とか感想とか

 

 

1.ミッドサマー2回見ました

R15版とR18版を各1回ずつ見ました。

1回目にR15版を観た感想は、重く苦しくてえぐい物語だったけど他人事というか、なんとなく自分より遠く現実味のない物語だと思いました。ダニーのヒステリックだったり、別れかけのカップルの空気感だったり、異文化の村だったり自分とはかけ離れたものが多くてよくも悪くも”物語”として見てました。

2回目にR18版を見た時は、色んな人の考察とかを沢山見てたし、1回見たということもあって、すごくつらく感じました。物語の凄惨さというよりは、体験として苦しい思いをした感じでした。

1回目に見た時はほとんどネタバレを見ないようにして、まっさらな状態で見たから特に何も思わなかったんだと思いますが、自分が観た感想とか他の人の感想とかを照らし合わせて、”ホルガ村は1つのカルト宗教集団”という視点でミッドサマーを見ると、カルトの恐ろしさというか、信仰の恐ろしさというか、そういうものが如実に感じられてすごく怖かったです。

ミッドサマー2回目という事もあって1回見ただけだと忘れてしまってたところとか、ミッドサマーを見ながら思ったこととか、考察とかを書いていこうと思います。ネタバレ含みます。

最終的になぜか演劇の話になってますがご容赦ください。

 

 

2.R15版とR18版の違い

R15版を観てからR18版を観ると、かなり作中で大事な部分が削られててびっくりしました。ざっと思い出せる箇所を挙げると

 

・ダニーをスウェーデン旅行に誘うクリスチャン

・ホルガ村へ移動中の車内

・2つ目の儀式

・ダニーとクリスチャンの口論

・細かい会話

 

などがありました。

ダニーとクリスチャンの関係とか、作中の大事な部分を理解するのにかなり大事な部分だと思ったので、R18版ぜひ観に行ってほしいです。これを観てるのと、R15版だけの解釈とかなり齟齬が生じると思います。グロテスクさはR15版とほとんど変わらなかったと思いますが、クリスチャンのモザイクが全くなくなってるのでそこだけR18だな、と思いました。

 

 

3.メイクイーンについて

私は人類学にも詳しくないし、ルーンにも詳しくないのでホルガ村の詳しい信仰の形や文化について考察するのは控えたいと思いますが、1回目も2回目も観た後にもやもやしていたメイクイーンという存在についてだけ考察したいと思います。

 

メイクイーンは”夏至祭のダンス大会で決められるホルガの女王”という存在です。ダニー達が招かれた夏至祭は90年に1度の大祝祭で、女王の決定や大量の生贄は大祝祭だからなのか、と1回目は思っていました。

ですが、宿舎にあるメイクイーンの写真が90年に1度にしては多すぎるところと、ホルガ村の住民がペレに対し「彼の人を選ぶセンスは素晴らしい」といった発言から、メイクイーンは頻繁に誕生していて、ペレは今まで何度か人をホルガ村へ招待していると考えました。実際、ペレがマークの家でダニーにホルガ村の説明をしているときにお揃いの白衣装を見せながら「夏至祭と冬至祭でこの衣装を着る」と言っているため、ホルガ村では少なくとも年に2回は生贄を伴った祝祭が行われているのではないでしょうか。

 

ここで、ミッドサマーの作中での季節の描写について考えたいと思います。

まず冒頭のオープニングは冬です。冬の季節にダニーは妹と両親を失います。ここから、冬という季節は死を表しているのではないかと考えられます。ド頭の一枚絵にも髑髏が描かれた冬の季節が描かれていました。

それと対応するように、夏は生の季節として描かれています。ホルガ村での夏至祭は生に対する感謝を捧げる祝祭であり、冬=死、夏=生という構図が見てとれます。

 

次にメイクイーンという役割について考えたいと思います。

ホルガ村は”役割”を重要視しています。その”役割”によって信仰が成り立っているといっても過言ではないかもしれません。

では、メイクイーンの役割とは何なのでしょうか?

文字通り女王という役割であり、メイクイーンはホルガ村そのものなのではないかと思いました。ホルガ村では個は存在せず、みんなが1つの共同体であるホルガを演じているように感じました。ホルガという存在になる、ということがホルガ村での信仰であり、幸福であり、存在意義であると思いました。であれば、メイクイーンという役割を作る必要性は何なのでしょうか。

1つの考察に過ぎないのですが、メイクイーンはただの象徴なのではないでしょうか。そして同時に外部の人間をホルガに取り込むための役割なのだと考えました。

ホルガにとって重要な役割であるとしたら、外部の人間にその役割を与えるとは考えられません。ホルガにとって重要な神殿は外部の人間に立ち入らせておらず、ルビ・ラダーも外部の人間に触れさせていません。ホルガにとって重要なものは外部の人間には接触させないというルールは存在すると考えられます。だとすると、女王であるメイクイーンを外部の人間に与えるというのは不自然に感じました。

 

であれば、メイクイーンとは一体何なのか。それは、外部の人間をホルガの一部にするための手段なのではないかと考えました。そしてこれは確証のない考察なのですが、冬至祭での生贄なのではないかと思います。冬至祭について詳しく調べた訳ではないのですが、中世の冬至祭では生贄を捧げていたという記述もありました。夏に豊穣の象徴として誕生したメイクイーンを冬に次の年の豊作の祈願として捧げる。夏に誕生し、冬に死ぬ。生命のサイクルを唱えてるホルガ村では考えられなくはないサイクルだと思います。ただ、これは作中では一切言及されていないので、ほとんど妄想に近い考察です。

 

 

4.役割という恐怖

メイクイーンについて考察しましたが、ホルガ村の一番恐ろしい所は死を厭わない残虐性ではなく、1人1人に役割があるというところだと思いました。

ここからは考察ではなくただの感想なのですが、私が2回目のミッドサマーを観た時に一番心に残ったのがホルガ村に行く前にペレがダニーに言った、

「(ホルガ村の夏至祭は)演劇みたいなものさ、みんなに役割がある」

という台詞でした。

人生の半分くらい演劇に携わっている私としては、なかなかに衝撃のある一言でした。

演劇だけでなく、映画もそうですし、このミッドサマーだってそうですが、人が演じている以上、役割が振り分けられています。役者が役割を忠実にこなした結果が役のキャラクターが生きるんだと思っています。ですが、それを突き詰めれば、ホルガ村のような恐ろしい1つの塊になる可能性があることを思い知らされたようでした。

人に与えられる役割の恐ろしさは、スタンフォードの監獄実験やアウシュビッツ収容所の監視員などの史実からも想像することができます。人は役割を与えられることで本来のその人にはない言動や行為がいとも容易くできてしまうのです。

ホルガ村の人々も、本来人を殺すような残虐な人々ではないのだと思います。しかし、ホルガというサイクルを守る1つの役割を与えられたため、人を殺すことに疑問を抱かなくなってしまったのではないでしょうか。

演劇をしていると個を無くして役に徹する場面はたくさんあります。個を殺すことによって役が生きる芸術であると考えられますが、ミッドサマーを観て、かなり危うさを含んだ芸術なんだと改めて思いました。そして、それが役割でしかないという事が見透かされると途端に白けてしまいます。

ミッドサマーにおいて、ペレもただの役割を与えられたホルガ住民に過ぎなかったと思います。1回目に見た時はダニーへの恋心とまでいかずとも何か人間的な思いがあると思っていました。ですが、2回目を観た後では、ダニーに対する思いはなく、ただホルガに対する役割を全うしていただけだったんだと思いました。役割に徹して生きるペレが薄ら恐ろしい存在としか思えず、ホルガの恐ろしさを感じました。

 

 

5.ホルガ村恐ろしいところ

個人的な考察や感想を述べてきましたが、結論としてはホルガ村はすごく恐ろしいところだな、という気持ちです。

ミッドサマーをセラピー映画だと評価する人もいますが、もしかして観ている映画が違うのかと感じるほど、ミッドサマーにセラピー性を感じられませんでした。

ただ集団の中の1つの役割として動く人々の恐ろしさを思い知らされた映画だと思いました。何か1つの巨大な塊が悪意なく、こちらに害を及ぼしているみたいな感じでした。